取引事例法と企業評価

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境野 晋哉

株式会社企業評価総合研究所

大学で経済学(証券市場論)を専攻の後、都市銀行のシステム部門、出版社の経営企画、中小企業を主要顧客とした税理士事務所を経て企業評価総合研究所に入社。会計税務、ITの知識の総合力で取引事例法のデータベース整備およびシステム化を担当。税理士。

1.

はじめに

M&Aの企業価値算定(株価算定)について、主たる手法として
①コストアプローチ(時価純資産+営業権法など)、
②マーケットアプローチ(EBITDA倍率法など)、
③インカムアプローチ(DCF法など)
があります。

「時価純資産+営業権法」は、その名のとおり、決算書の資産と負債の差額である純資産に営業権をプラスして企業価値を算定する方法です。
通常この純資産は、決算書の簿価純資産ではなく、資産や負債を時価に再計算した時価純資産を使用します。これは、特に中小企業においては資産・負債を取得原価のまま決算書に計上していることが多く、簿価純資産とすると株式譲渡検討時の資産・負債の実態とかけ離れていることが多々あるためです。また、営業権というのは、一般的な水準より収益力がある会社にプラスでつける価値です。再計算した利益にその状態が何年続くという想定年数(営業権持続年数)を乗じて算出します。

「EBITDA倍率法」は、EBITDA(シンプルには営業利益+減価償却費と考えてください)に、類似会社のEBITDA倍率を乗じて企業価値を算定する方法です。
この類似会社をどうやって選定するのかが大きなポイントになります。
また、営業利益についても、特に中小企業においては法人税等の税額を低くするために様々な節税方法を採用していることが多く、決算書の数字が必ずしも実体的な営業利益を示しているとは言えない点に注意して、必要な修正を行います。

「DCF法」は、事業計画をもとに将来獲得するキャッシュフローを現在価値に割り引いて、その総和で企業価値を算定する方法です。なお、これは最も理論的な手法とされていますが、多くの中小企業では精緻な事業計画をたてることが難しく、事業計画の数値や割引率の算定根拠など、その算出過程で恣意性が入りやすいため現実的に採用しにくい手法です。

さて、上記の中で「営業権持続年数」とか「EBITDA倍率」という言葉が出てきます。
これらは、営業権(その企業の純資産を超えて株価が付くことで、その企業がもつ魅力と考えてください。時価純資産1億円の会社に1.5億円の株価が付くといったイメージです)の算定にダイレクトに関係する重要な倍率なのですが、ここで疑問に思いませんか?
これらの倍率って、どうやって採用するのだろう?って。

時価純資産、EBITDA(営業利益と減価償却費)は、決算書、土地評価書、固定資産台帳その他の資料から計算することはできます。
でも、営業権持続年数やEBITDA倍率は対象会社の資料のどこを見ても、通常は分かりません。もちろん、EBITDA倍率については、上場会社のデータを集計しているようなサービスがあるので、そこを参照することは可能です。しかし、中小企業と上場会社を比べるのは、その規模などからあまり妥当とは思えません。
これらについては、根拠となるデータを集めるのが大変で、それが故に、ことに中小企業の株価試算の段階では(なんとなく)営業権持続年数は3年と仮定してとか、EBITDA倍率は5倍と仮定してとかして計算していることが多いように見受けられます。
ただ、本当にそれが妥当なのか…というと疑問が残る点があります。
伝統的な業種である建設業と最近になって認知されてきたAI関連企業で同じように営業権持続年数は3年、東京都の企業と地方の企業で同じようにEBITDA倍率5倍で試算しました、というのは違和感があるのではないでしょうか?

そこで、我々、企業評価総合研究所は、これらに答えを出すべく取引事例に着目した株価算定を提言しています。取引事例法自体は、不動産業界や中古自動車業界などで既に用いられていて、決して目新しい手法ではありませんが、それが情報の秘匿性の高いといわれる中小企業のM&Aに用いることに大きな意義があります。

本コラムでは、M&A(特に中小企業のM&A)における取引事例法の重要性について述べていきますので、少しお付き合いください。

2.

取引価格って何だろう?

(1)

取引価格について

皆さんは値決め(取引価格)について考えたことがありますか?
私はビジネスをする上で、提供するものの値決めは、かなり難易度の高い項目だと思っています。

売手(提供する側=受取る側)としてはなるべく高く、
買手(提供される側=支払う側)としてはなるべく安く
取引したいというのが人情でしょう。

一般的に取引価格については、買手(提供を受ける側)が「これ位だったら払ってもいいかな」と思う金額の範囲と、売手(提供をする側)が「これ位であれば利益的にもいいかな」と思う金額の範囲が一致すれば、成立するもと考えられます。
例えば、1本のスポーツドリンク500mlを飲むのに150円支払うというのは、150円位だったら支払っても飲みたいと思う購入者と、150円位で売れば利益がでると思う飲料メーカー側の思惑が一致していると言えます。
仮に飲料メーカーが強気の価格設定を行って、スポーツドリンクは贅沢な飲み物と位置付けたので500mlペットボトル1本が1,000円です…という状況になったら、皆さんはどうしますか?そのスポーツドリンクに何か特別な効果(1本飲むと8時間寝たのと同じ効果だとか、見た目がちょっと若返るとか)がない限り、殆どの人は余程のことがなければお茶とかジュースで代替するのではないでしょうか?つまり、殆ど売れない商品になります。
逆に飲料メーカー側のミスジャッジで500mlペットボトル1本が50円ですとなったらどうでしょうか?ひょっとしたら製造原価くらいは回収できるかもしれませんが、物流コストや販売コストなどを考えると利益がでるかは怪しいと思います。つまり、飲料メーカーの存続に関わる商品になります。

(2)

取引事例と価格

上記のようなミスジャッジを避けるため、通常は販売前のマーケティングを行います。
スポーツ飲料であれば、ポ○リスエットやア○エリアスなど既に類似商品がでていて、それらがスーパー、コンビニ、ドラッグストア、自販機などで、幾らで販売されているか、ちょっと調べれば分かります。
逆に、これらは皆さんも良く知っている訳です。

だから、私があなたに、1本500mlペットボトルのスポーツドリンク(ポ○リスエット)を「これを1,000円で売るよ」って言ったら、ほぼ全員が「高すぎる!ボッてる!」って思うはずです。なぜ、そう思うか。それは、あなたが1本500mlペットボトル飲料を近くのドラッグストアで100円弱、コンビニでも150円程度で売っていることを知っているからです。要は判断基準となる価格が頭の中にあるわけですね。
だから、100円から150円くらいなら妥当だと思って買うかもしれませんが、それを超えてくると普通の状況だと、売主との関係で忖度して買うべきか、やっぱり高いから買わないかなど、ちょっと考えるわけです。

もっとも、この100円から150円というレンジがスポーツ飲料の絶対的な価値、唯一無二の正しい価値かというと、そうは言い切れません。
例えば、次のようなシチュエーションで「スポーツドリンク(ポ○リスエット)を1,000円で売るよ」って言われたら、どう感じますか?

「砂漠で遭難して今にも脱水症状を起こしそう」
きっとこんな感じになるのかなと思います。
「1,000円どころか10,000円やその数倍の値段でも買う!」

このように、本来の適正価格は100円から150円のものでも、相手(買手)の状況によっては、とてつもなく魅力的な商品にうつり本来の価値を超えて値段が付くかもしれません(営業権(のれん)が凄くつく取引と言えます)。
ただ、これらはあくまでも特殊な状況です。
これを期待して、最初から売手が1,000円と値付けをしたら、やっぱり滅多に売れない商品になってしまいます。

(3)

中小企業のM&A価格の難しさ

これはM&Aにおける株価にも言えます。
適正な価格帯で売却希望価格をだせば売れる可能性は高まり、あまりに高い希望価格だと買手もなかなか現れないと思われます。
もっとも、中小企業のM&Aの株価(=中小企業そのものの価格)については、ある意味オーダーメードの1点ものなので、先のスポーツドリンクとは違って市場調査を行って調べるわけにはいきません。

では、簿価純資産や相続税評価額で株価をだせば良いのかというと、それもちょっと違います。中小企業の決算書(簿価)は取得原価のまま据え置いていることが多く、資産の含み損益や負債の認識がないが故に株式試算時点の実態を適切に表していないことが多いです。また、相続税評価額は相続税を課税するための評価ですから、一般的に若干納税者有利に評価しており、取引時価よりは低めに計算される傾向があります。
じゃあ、ちょっと調べるのが手間だけど、時価純資産で株価をだせば良いかというと、それも疑問が残ります。
仮に時価純資産が1億円の会社を(純資産法を基に)1億円で売りますか?
これだけの情報だと、イエスともノーとも言えないかもしれません。
では、これに「毎年5千万円の利益が出ている」としたらどうでしょう?
1億円で売るのがもったいない気がしますね。1年たてば5千万円の利益がオンされて、1年後の時価純資産は1.5億円、2年後の時間純資産は2億円になっているはずですから。
では、この状況で果たして株価は幾らとすれば良いでしょうか?
何となく利益3年分をオンして2.5億円とするか、強気に「この利益10年は続くから」と10年分の利益5億円をオンして6億円とするかです。

もちろん、正解はありません。
オーナーが6億円で売りたいと言って、6億円で買ってくれる買手が見つかれば売買成立です。あくまでも営業権(時価純資産を超えた価格)は買い手が付けるものですし、この価格で成立するなら買い手としては売手企業に相当な魅力を感じていると思われます。ただし、希望売却価格があまりにも交渉の土台となりそうな価格から上振れていると、先ほどの砂漠のスポーツドリンクではありませんが、滅多に売れない取引になります。
じゃあ、何となくで3年分の利益をオンした2.5億円だとどうか。6億円よりは買手が見つかりそうですが、売手としては「安く売ってしまったのではないか」とモヤモヤが残るかもしれません。

この辺が、市場がない世の中に1点ものの売買をする難しさだと思います。
だからと言って、交渉の土台となるような価格基準もなく、買手ごとに交渉をしていたのでは、取引が決まるまでに多くの時間と労力を費やしてしまいそうです。
そこで、企業評価総合研究所では、過去の取引事例を基に営業権持続年数等を計算して、この交渉の土台となるような適正価格の試算を提言しています。

3.

取引事例法の類似取引

(1)

似ているってなに?

取引事例法で重要なことは「似ている取引=類似取引事例」を参照することです。
例えば、1本500mlのスポーツドリンクの売買実績を考えるとき、直感的に、同じジャンルの飲料で考えると思います。コンビニのポ○リスエット、スーパーのアク○リアスの売値を見て、それで高いか安いかを判断するのには違和感がないと思います。
ただ、同じ1本500mlの飲料でも、ビールと比べたらどうでしょう?
コンビニで500mlビールが250円だから、類似取引実績としては150円~250円だねと言われても、ちょっと納得感が消えてきますね。
また、同じ「1本500mlのスポーツドリンク」で比べましょうと言っても、取引も多く運搬も容易な街中のコンビニやスーパーと、取引が限られており特殊な事例の砂漠の中での販売は果たして意味があるのか…という感があります。

株価算定における取引事例にも同じことが言えます。
建設業とIT企業を比べることは業種や資産構成からも類似とは言えません。
また、東京都の不動産業と沖縄県の不動産業も扱う地域の地価や目的(ビジネスかリゾートかとか)を考えると単純に比べて良いのか悩みます。
さらに、同じIT企業で東京都にある会社でも、受託開発と自社開発、大手と零細でそれぞれ比べても良いものかも悩みます。
そして、その直感のとおり業種や地域、会社規模によって、営業権持続年数やEBITDA倍率は異なってきます。
そして、これら営業権持続年数やEBITDA倍率について差異があると語るためには、ある程度の事例件数が必要になります。
たまたま成約した1件が事例ですと言われても、買手から見て魅力的な案件で高値が付いた、売手の事情で売り急いでいて割安だったなど特別な条件の可能性もあり、なかなか納得ができないと思います。ある程度の規模の取引事例データベースがある会社でないと、まともな倍率は出てこない点にご留意ください。

(2)

取引実績データベースを作るには

今までのお話で、取引事例法を使うには、過去の成約実績を基にしたデータが一定数必要であることはご理解いただけたと思います。
では、単純に取引事例の数があれば十分なのでしょうか?
それはノーです。
なぜなら、中小企業の決算書の特徴から「このデータベースは決算書だけあれば作れる」というものではないからです。
営業権持続年数にしてもEBITDA倍率にしても、成約金額(これも当事者でなければ知り得ませんが)と正常な利益やEBITDA(正常な営業利益+減価償却費と考えて下さい)が必要になります。
この「正常な利益」というのがなかなかのクセものです。

本来、財務諸表を作る目的は、
貸借対照表であれば企業の財政状態の開示(資産がいくら、負債がいくら)
損益計算書であれば適正な期間損益の開示(1年間でどれくらい利益が出たか)
ですが、もちろんその目的はあるものの、中小企業の場合は少し違った視点で
財務諸表を作成することが多いです。
それは「税務申告のため(むしろどれだけ節税するか)」という視点です。
中小企業の社長にとって、もちろん利益も大切ですが、それ以外にも、来月支払うべきものに十分に現金預金があるか、そして税金は幾らかかるかが関心事となっています。

この視点に立った場合、本来の財務諸表の作成方法と、ちょっと違う点が出てきます。
具体的には下記のようなことが起こります。

  • 法人税法等で認められない処理はやらない
  • 利益を少なくしようとする傾向がある
  • 役員報酬と会社の利益を比べて最適な報酬額にする

ただ、もちろん全ての経営者がそう動くわけではありませんし、特に建設業界で公共工事を受注しようとする場合などちゃんと利益がでている方が良いというような場合もあります。

そこで、我々企業評価の専門家が、普通に企業活動を行った結果で利益を創出するという通常の判断のもとに決算書を引き直したらどうなるか、適正な資産や負債は幾らなのか、という視点に立って企業評価書を作成するのですが、その延長線上にこれらの評価数値から求めた利益等と、実際の成約金額とを比べて倍率を賛成していくというプロセスが入ります。
つまり、単に決算書が手元にあって成約金額が分かっただけでは、実情を反映した倍率の算定はできず、仮に決算書を基に算定した倍率であれば、それは現実とはかけ離れている可能性があるのです。この取引事例(成約額)を基に倍率を算定するという裏方のプロセスであっても、専門家による膨大な作業のものとに行われるべきであって、これを行えるか否かで取引事例データベースが使えるものか否かの分かれ道と言えます。

仮に他社が同様のサービスを行っている場合、この辺をしっかり踏んで倍率を提供しているのか、気にすべきポイントだと思います。
もちろん、我々、企業評価総合研究所はこの専門的処理を行っていますので、ご安心ください。

4.

まとめ

以上、ここまで読んで頂いたとおり、中小企業のM&Aにおいては、交渉の土台となる価格帯の試算ですら明確な裏付けをもって行うのが難しいとお分かり頂けたのではないでしょうか?
「時価純資産+営業権法」の営業権持続年数にしろ「EBITDA倍率法」のEBITDA倍率にしろ、「そもそもM&Aという大イベントについて既存の利益がどこまで続くのか」という疑問からスタートして、果たして裏付けのない持続年数や倍率に意味があるのだろうかという考えがあるかもしれません。
時価のない中小企業の株式、特に決算書も基本的には税務申告のために作られていて適正な純資産額や利益を示しているとは言えないものから株価を試算しようとする場合、これを解決できる唯一の手段は「適切な修正を加えて取引事例法を活用すること」と言えます。
今後、日本では60万社を超える後継者不足の黒字企業が一つの解決手段としてM&Aに期待を寄せています。
そんな中で、1社でも多くの会社が納得のいく成約金額でM&Aを行っていただくためにも、適切な企業評価書をご準備頂くことがM&A成約のための1歩とご認識頂けたら幸いです。